泡のラテアート

5月30日 午後3時19分

「いらっしゃいませ」

 頑丈なホワイトオークのドアをくぐると、心安らぐ木の匂いに混じって焙煎されたコーヒーの甘い香気、そしてほのかにパンが焼ける香りがアリアを出迎えた。

 どうやら店の名前は伊達や酔狂で付けた訳ではないらしい。

 アリアが匂いの元を探るまでもなく、入口正面にあるレジカウンターの脇には三段組の大きなショーケースが鎮座していて、硝子越しに焼きたてのパンが並んでいるのが見えた。

「ウチのマスター、パン作りが趣味で、コーヒーの焙煎よりもパンを焼く方が上手いくらいなんですよ」

〈それは笑顔で自慢げに話すことなのか?〉

 やはりどこか間の抜けた感じがする大学生にエスコートされながら店の奥に進むと、ますますパンの匂いが胃袋を刺激した。

「確かに美味しそう」

 ツヤツヤのバターロールに砂糖で化粧をした揚げドーナツ、ふっくらときつね色に焼き上がったクロワッサン……。

 どれも基本のパンだが、趣味が高じたとは思えないほどの出来栄えだ。

 先程の心の失言を取り消すつもりで素直な感想を述べたアリアだったが、彼女の胃袋はもっと直接的に賛辞を送った。

 寝起きの猫が喉を鳴らすような音がお腹から漏れ、おもわず俯くアリア。反射的に下丹田に力を込めるが、万年帰宅部員の彼女に生物の根源的な生理活動に抗うだけの筋力は無い。

 アリアは店内に流れている小粋なジャズミュージックがかき消してくれるのを祈ったが、すぐそばに居た創介はその拙い腹のスキャットを聞き逃さなかった。

「ああ、お腹が空いてたんですね。やっぱり育ち盛りだからですか? ウチの妹も1日4食とか5食とか平気で食べるから料理のしがいがあって……」

 しかも、あえて気づかないフリをするという最低限のデリカシーも持ち合わせていないようだ。

 創介はカウンターの奥にリュックを置くと代わりに小さなバスケットを差し出した。

「よかったら、これどうぞ。試食用のガーリックラスクなんですけど、このニンニクとバターの塩っ気が絶妙で、自分も休憩中についつい食べ過ぎちゃうんですよね」

〈……なんかもう、おうち帰りたい〉

 創介のよく透る声に、店に居た客の何人かは視線をコッチに向けている。

 アリアは紅潮した顔を押さえながら、半ば倒れ込むようにテーブル席のソファに着いた。

 店内にカウンター席は無く、二人掛けと四人掛けのテーブル席が背の高いパーテーションによって囲われており、人目を気にせずゆったりと寛げるような造りになっている。天井は吹き抜けになっていて、縦横に渡された頑丈な梁の向こうに三角屋根の内側が覗いていた。

 お昼をとうに過ぎているということもあって、パーテーションの上からわずかに見える客の数は少ない。

 テラス席で親しげに話しているカップル、奥の席で猫背気味に俯いてるサラリーマンの男性、店の奥のトイレに入っていく小太りのおじさんなど、客層もバラバラだ。アリアの席からパーテーションを挟んで隣の席にはOL風の女性が二人、向かい合わせに座っていた。

「ねぇ見て見て、真美まみ。『天然酵母を使った手作りパンのお店でランチ中』って書いたら、さっそくこんなに『いいね』付いたよ?」

 二人組のうちの一人――前髪を斜めにバッサリとカットしたミディアムヘアーの女が自分のスマホをもう一人の女性に見せている。

 一方の長い髪を襟足のあたりでプレッツェルのようにまとめた女の方は興味なさそうに頬杖をついていた。

「どうでもいいけど由佳ゆか、アンタ、パン頼みすぎ」

 アリアの席からは木製のパーテーションに隠れて見えないが、由佳と呼ばれた女性の方はかなりの大食漢のようだ。

「えー、だってコッチの方がインスタ映えするし」

「そんなこと言って、この前行った店でもローストビーフ丼も半分以上残してたじゃない」

「別にいいじゃん、お金はちゃんと払っているんだしさ……それとも真美が食べるの手伝ってくれるの? まだアイスコーヒーしか頼んでいないじゃん」

「嫌よ、私グルテンフリー二週目なんだから」

〈ははー、あれが今流行りの〝インスタ蝿〟と〝意識高い系ダイエット女子〟ですか……てか、オマエラ、仕事はどうした?〉

 アリアが珍獣でも見るような目つきで二人を観察していると、店の制服に着替えた創介がポットとカップを持って戻ってきた。

「ほう………」

 アリアはおもわず唸った。

 パリッと糊の利いた白いYシャツの上にシングルのベストをまとい、ボトムは暗色のスラックスに厚手のウェストエプロンを合わせている。はっきりとしたコントラストは彼の手足をより長くスマートに見せるのに一役買っていた。もはや最初の“チャラい大学生”という感じはしないが、ネクタイの結び目の山が少々不格好で、やはりどこかぼんやりとした印象を与えていた。

 頭の先から足元までアリアが不躾な視線を往復させていると、創介は無地のカップと保温用のステンレスポットを掲げて見せた。

「当店では試飲用のコーヒーもサービスしているんですが、いかがですか?」

「あ、ハイ……」

 アリアが小さく頷くと創介は空中でポットを傾け、流れ出した黒い液体をもう片方の手にあるカップで受け止め、空中に香り豊かな虹を掛ける。

〈コイツ、無駄に器用なマネを……〉

 密かにアリアが呪いを送っているにもかかわらず、コーヒーの雫がカップから跳ねることはなく、代わりにもうもうと湯気が立ち込める。まるでコーヒーの滝を見ているようだ。香辛料にも似たエスニックな香りが漂い始め、アリアはおもわず溜め息をついた。

 創介もまた同じように香気を吸い込むと、静かにゆっくりと息を吐き出す。

「……今日の豆はモカをベースにしたブレンドですね。アラビア半島のモカという港町から出荷されるコーヒーの事を言うんですけど、最近はエスプレッソとココアを混ぜた『カフェモカ』の方が有名になっちゃってますね。独特の芳香と酸味が特徴ですが、ウチで使っているのはよりマイルドなイエメン産なので、それほど好き嫌いは別れないと思いますよ」

〈むぅ……バイトのクセに知識も豊富じゃないか〉

 それでいて嫌味ったらしくならないように伝えるべき情報をコンパクトに集約する能力もあるようだ。

「ども……」

 なんとなく悔しい気がしてアリアは素っ気なく会釈すると白磁のカップに口を付けた。

〈――熱っ!〉

 保温ポットに入っていたとはいえコーヒーはひたすら熱く、アリアはおもわず舌を引っ込めた。これでは独特の酸味とやらはおろか、苦味も何も感じられない。

 どうやら本当にこの店のマスターはコーヒーを淹れるよりもパンをこねる方が得意とみえる。

 地獄のようなコーヒーとアリアが格闘していると、まさにこれを淹れた本人が厨房の奥から顔を出した。

「あ、マスター、おはようございます」

 創介につられて厨房の方に視線を向けた瞬間、アリアはおもわずコーヒーを噴き出しそうになった。

 てっきり、ロマンスグレーが似合うオジサマが出て来るかと思いきや、現れたのは八十キロは下らない恰幅の良いおばさんだ。着古されたコックコートは体型に合わせて横方向に伸びており、第一ボタンが留まっていない。

〈どう見ても給食のおばちゃんじゃないか!?〉

 アリアは喉元まで出かかった言葉を熱いコーヒーで無理やり流し込んだ。

 一方、おばちゃんの方は照れくさそうに笑いながら、大きな顔の前で手を振る。

「やだよ、この子は……〝マスター〟なんて堅っ苦しいから、鳩村はとむらって呼んでちょうだいって言ってるでしょ」

 口ではそうは言いながらも、満更ではないのは表情を見れば一目瞭然だった。大きく平べったい鼻の頭に小麦粉を付けたまま豪快に笑う姿からは人の良さが滲み出ている。

「事務室にも居なかったみたいですけど、どちらへ行ってらしたんですか?」

「ああ、ちょいと裏の倉庫に材料を取りにね」

〈オイオイオイ……そんな危機管理で大丈夫か、この店?〉

 真面目そうだがどこかぼーっとした青年と人の良さを絵に描いたようなおばさんの会話を尻目にアリアはメニューに視線を落とした。

 『本日のブレンド』にアメリカンコーヒー、エスプレッソの他、カプチーノやウィナーコーヒーといったものもある。『何とかマキアート』みたいな無駄に名前が長くて小洒落た物は無いが、基本を押さえたラインナップだ。

「あの――」

「あ、そうそう! 九野君が来てくれるのを待ってたのよー!」

 アリアが注文しようとした瞬間、鳩村マスターの大きなお腹から飛び出た笑い声がアリアの蚊の鳴くような声を吹き消してしまった。

「あっちのお客さんが例の特別なカフェラテを注文したいみたいだから、お願いできる?」

 そう言って例の二人組のOLの方に視線を向けるマスター。

〈アイツらか……〉

 注文を取らずに行ってしまった創介の背中を恨みのこもった視線で一瞥した後、再びメニューに視線を戻す。

 しかしそこには単に『カフェラテ 三五〇円』としか書かれていなかった。

 何が〝特別〟なのか気になったアリアは席を立つとショーケースの中のパンを選ぶフリをしながら、チラリと二人組のテーブルの方を窺った。

 パーテーションとパーテーションの間、ちょうどボックス席の入り口になっている部分から辛うじて二人のテーブルが見える。

 創介は二人の女性客が向かい合わせに座るテーブルの真横に立ち、白いマグカップにステンレス製のミルクピッチャーを傾けていた。濃厚なエスプレッソの香りが漂う中、アーモンド色の液体に真っ白なミルクが溶け込んで鮮やかなマーブル模様を描き出す。

 だが、それだけで特段変わったところはない。ミルクでハート模様でも作るのかと期待したアリアもすぐに興味を失い、ショーケースに視線を戻した瞬間、二人が黄色い歓声を上げた。

 創介の手元に注意を戻すと彼はピッチャーとは別に用意したグラスから泡立てたミルクをスプーンですくい、カプチーノの上に盛り付けていた。最初は積乱雲のようにうずたかく盛り上がっていただけの泡が徐々に形をなし、耳や前足といったパーツが出来上がっていく。まるで石膏像作りを見ているようだ。

 仕上げにスプーンをアイスピックに持ち替えると、創介はカプチーノの茶色い液体を使って目や眉、口を手際よく描き込んでいく。

「ヤダ! この白熊、超可愛い!」

 ミルクを注いでから一分かそこらで、マグカップの上には可愛らしい熊が浮かんでいた。ふんわりと弾力のあるフォームドミルクが白い毛皮を表現していて、本当に白熊が水面から顔を覗かせているかのようだ。

〈これは立体のラテアートか……〉

 いわゆる一般的なラテアートは注いだミルクの模様だけで図案を表現したり、クレマを使って絵を描いたり平面的なものが主流だが、日本の若者が生み出した立体的なラテアートがSNSを中心に話題となり、昨今のインスタグブームも手伝って様々な造形のラテアートが日々全国のカフェで生み出されている。

 目の前の青年もまた飲むのがもったいない程の見事な泡の造形物を生み出していた。

「凄いコレ! 飲むのがもったいなーい!」

 さっそく由佳と呼ばれたOLの方がスマホを取り出し、何枚も写真を撮っている。

 アリアが感心とも呆れともつかない表情で創介のパフォーマンスを見ていると、焼きあがったばかりのパンをショーケースに並べながら鳩村マスターが話しかけてきた。

「インスタっていうのかい? 九野君があれをやってくれるようになってから、若いお客さんが増えてあたしゃ嬉しいよ」

 鳩村マスターの創介を見つめる目は完全に孫の学芸会を見守るおばあちゃんのそれだ。

「私もパンでならそこそこいけると思うんだけどねぇ」

 鳩村マスターの言葉を受けてアリアがショーケースに視線を戻すと、パースの歪んだ猫型ロボットや、口のチョコが溶け出してスプラッタ状態の愛と勇気だけが友達のヒーローがうつろな目でアリアを見つめていた。

「は、はぁ……まぁ……」

〈似てなさすぎて版元から訴えられる心配だけは無さそうだケド……〉

「なになに? 何かあったの、鳩村さん?」

 アリアがコメントに窮しているとトイレから戻ってきた作業着姿の中年男性が話に加わった。

 髪の方はだいぶ薄くなっているが、赤く日に焼けた顔でくしゃっと笑う姿は親しみやすく、いかにも話好きそうな感じだ。

 ただ、制服姿の女子高生を下から上まで舐めるように見つめる視線にアリアは寒気を覚え、おもわず半歩距離を置いた。

「鈴木さん、いつも来てるのに九野君のあの技見たことなかったっけ? もうホント凄いんだから!」

 話している間にも創介は二杯目のラテアートに取り掛かっていた。

 わずかにマグカップに手早くミルクを注ぎ、スプーンを使って泡フォームを盛り付けていく。

――PiPiPiPiPiPi!

 突然、けたたましい電子音が鳴り響き、創介は危うく手元が狂いそうになった。

 奥の席に座っていた男性が眉間にシワを寄せていると、由佳が勢い良く立ち上がる。どうやら耳障りな音の発信源は彼女の手の中にあるようだ。

「もう、こんな時に電話なんかかけてくるなんて誰よ?」

「会社からじゃないの? アンタのSNS見て、喫茶店でサボってるのバレたとか?」

「うわ、上司にインスタ覗かれるとかマジキモいんですけど」

「ほら、早く行っといで」

「真美、まだそっちのラテアート撮ってないんだから戻ってくるまで絶対飲まないでよ?」

 片手をヒラヒラと振る友人に念押ししながら由佳は店の奥にあるトイレへ向かう。ちょうどテラス席の男性客がトイレから出てきたところで、洗面台のある狭いスペースでお互い体を横にしながら奥の一人用の個室に入って内側から鍵をかけてしまった。

〈や、トイレで電話するなよ……〉

 アリアが心の中でツッコんでいると、創介の作業を後ろから覗き込んでいた鈴木がショーケースの所まで戻ってきた。

「いや、まったく凄いね! 彼、美大生か何か?」

「どうだったかねー? 履歴書には大学生って書いてあったと思うけど」

「たぶん明智みょうち医科大の二年生かと……」

 おもわず口を滑らせてしまった事をアリアは後悔した。案の定、鳩村マスターと鈴木は怪訝な表情でアリアを見ている。

「お嬢ちゃん、九野君の知り合いか何かかい?」

「いえ、さっき外で会っただけですケド……その時、押していた自転車のギアがだいぶ軽めに設定されていたので……」

 ますます不審そうな表情を募らせる2人にアリアは補足する。

「もし地下鉄の駅からここまで来たとしたら、道はほぼ平坦だから不要な設定です。 つまりヤツ――九野さんはこの山の手の住宅地の坂を自転車で登ってきたということにあなります。加えて、リュックの背中とズボンのお尻の部分に真新しいドロが跳ねていたことを考えると、おそらく自転車を立ち漕ぎしたまま途中、近所の珠山たまやま公園をショートカットしたんじゃないでしょうか? この店から自転車通勤可能な圏内で、公園方向にある医療系の大学は公立明智医科大学しかありませんから……」

「はぁ~~!」

 それまでのポツリポツリとした喋り方とは打って変わって、理路整然とした説明におもわず唸る鳩村マスター。常連客もつられて目を丸くしていたが、すぐに胡散臭そうな視線でアリアを見返した。

「あーいやいや、待った。何でそもそも医学生だって言い切れるんだ?」

〈もう、疑り深いオジサンだなぁ……〉

 アリアは面倒くさそうに溜め息を漏らすと、レジカウンターの奥に置きっぱなしになっている創介のリュックを指差した。

「あのファスナーの所に付いてるストラップ……」

 細い2本の紐をより合わせただけだが、小さな結び目が団子のように無数に連なっている。

「そういえば変わった形をしてるね」

「コイツぁ、お守りや根付に付いてるヤツじゃないかい? 若いのに古風な趣味をしてるねぇ」

「ヤ、あれは手術の時の結紮けっさつに使う外科結びです。医大生とか研修医とか、練習のためにああして結び目を何個も作ったりするものっだて……以前、ウチの姉が言ってました」

 ちなみに二年生だと見当をつけたのは、創介の見た目と二年くらいならまだ専門科目を履修しつつ昼間からバイトができるだろうと踏んだからだ。

 しかしそこまで説明するよりも先に鳩村マスターが難しい顔をしながら口元を寄せてきた。

「お嬢ちゃん、もしかして九野くんのフアンかい? ダメだよ、ストーカーは」

「んなわけあるか!」

 キッパリと否定し、ついでにブレンドとたまごサンドを注文して席に戻る。

 珍しく喋りすぎたせいもあるけど、いい加減喉が渇いた。

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